35.カラマーゾフの兄弟2 訳:亀山郁夫

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)

 前巻と同じで後半に行くほど怒濤のように読みきってしまう光文社古典新訳カラマーゾフの二巻目。本館の見所はなんといってもイワンの大審問官の件とゾシマの教えの件だろう(←というのは世間的な評価でもあるみたい)。前巻の時も、この本は「キリスト教文化を下にした愛憎劇」と書いたけど、今回のはまさにそうで、これらにはある意味ドフトエフスキーのキリスト教に対する見解のようなものが混ざっているんだろうなぁ、と思いながら読んでいた。これらの文章をバリバリ硬い文章で書いたらきっと読むのは厳しそうなんだけどこの訳ではそういう雰囲気の部分がかなり削られていて結構すんなりと読める。コレが光文社新訳文庫のよいところで、読んだことないし難しそうだから、と敬遠していた人こそ読んで欲しいと思う。

 ただ、その文章を読んだときには「これどういう意味だろう?」と思いながら最後まで特にそれに対して触れられず、読書ガイドで言及されているものがある。

p.301
 そこで彼はなぜかふと、兄のイワンが妙に体を揺らしながら歩き、後ろから見ると右肩が左肩よりもいくぶん下がっていることに気づいた。以前それに気づいたことはなかった。しかし、やがて彼もくるりと背を向け、ほとんど駆け足で修道院への道を急ぎだした。日はすっかり落ちて、不気味な感じがするほどだった。彼の心のなかで何か新しいものがみるみる大きくなっていくのを感じたが、それを言葉にすることはできそうになかった。

この右肩と左肩の描写がそう。このディテールにも意味があるらしい(と、読書ガイドでは述べられている)。この部分は、実はゲーテファウストから来ているらしい。僕は基本的にそういうのディテールが無駄に好きなのでそのうちファウストにも挑戦してみたい。光文社からファウストを出して欲しいな。とはいえ、近年の新訳ブームでファイストにも池内紀氏訳の名訳(第54回毎日出版文化賞企画部門受賞作)があるようなのでそっちに期待してもいい。


 そのほか。。。

p.436
 俗世は自由を宣言した。最近はとくにそうである。では、彼らの自由に見るものとははたして何なのか。それはひとえに、隷従と自己喪失ではないか!なぜなら俗世が説いているのはこういうことだからだ。「欲求があるのならそれを満たすがよい。君らは名門の貴族や富裕な人々と同等の権利をもっているのだから。欲求を満たすことを恐れず、むしろ欲求を増大させよ」これこそが、俗世における現在の教えなのだ。ここにこそ自由があると見ている。
 では、欲求を増大させる権利から生まれるものとは、はたして何なのか?富めるものにおいては孤立と精神的な自滅であり、貧しい人においては羨みと殺人である。なぜなら、権利は与えられてはいるものの、欲求を満たす手段はまだ示されていないのだから。

こういう部分での筆者の人間への洞察の鋭さには驚かされる。たしかディケンズを読んでいるときもそんなことを感じた覚えがある。

p.458
 倦むことなく実践しなさい。夜、眠りに入るまえに「やるべきことをまだ実行していない」と思いだしたら、すぐに起き上がり、実践しなさい。もし、おまえのまわりの意地の悪い、冷淡な人たちがお前の話に耳をかそうとしないなら、彼らのまえにひれ伏し、彼らに許しを乞いなさい。なぜなら、自分の話に耳をかそうとしないのは、じつのところおおまえに罪があるからなのだ。そして、もしそういう悪意をもった人たちとは話もできないと言うのなら、何も言わずに仕え、けっして望みを失いことなく、屈辱に耐えることだ。

いかにも聖書でした。これは前半はプロテスタントっぽいのかも?カラマーゾフを読んでいると聖書を読んでみたくなる。以前から聖書そのものに対してはそれなりに興味があったし。