24.翔ぶが如く5

新装版 翔ぶが如く (5) (文春文庫)

新装版 翔ぶが如く (5) (文春文庫)

 この巻は、台湾出兵(征台)にまつわる話から始まる。征台については、ほんのわずかにサブエピソードになることを予想していたのだけど、実際には比較的早い時期から西郷従道らによって挙兵された。その後、政略上の問題から兵を引くにせよそれだけの理由がなければ単に「負けたから引いたのだ」と批判されるため大久保自らが清側と交渉することになる。

 今回は大久保について見るべきところが多いと思う。1〜5巻の中では。

大久保の責任感について。

 一国を治める者について責任感云々いうのはそれ自体が問題な気もする。だってそうじゃない?日本の先陣に立って背負っていくような人たちが責任を全うしなければどうするの?
 だけど、現実を顧みるとどうだろう?現在の政治家は、はたして責任を全うしているといえるか?安倍さんはどう?小泉さんはどう?竹中さんとか小泉さんが辞めるときに一緒にやめちゃったし。
 別に現在に限った話でもない。この小説内でも、西郷は征韓論がうまくいかなくなったことから責任を放棄して薩摩に帰ったじゃないか。桐野を初めとする部下達も西郷がいなくなると知るやとっとと帰郷してしまってる。もちろん一概に悪いとは言えないかもしれないよ。だけど、責任という観点から見た場合彼らは明らかに無責任だ。
 それに対して、大久保はそうではない。かなりの重責にも耐えうるだけの強い精神力を垣間見るれる。清で交渉している間、毎日のように届く台湾の状況。重圧は相当のものだったろう。だけど、あせったり悩んだりするのではなく物事を冷静に判断しそして行動できる。そんな人物に僕はなりたい。
 次の描写がそんな大久保を如実に表現しているだろう。二つとも似てますけどね。

p.9
大久保ほど苦境に堪えられる性格というのもめずらしい。かれが盟友の西郷隆盛と危難を倶(とも)にしていたころ、西郷は重大な危難に遭遇するとにわかに、それも大津波の退くような勢いで、自殺や隠退へ逃避したがるという性癖――さらに言えば哲学化した性癖――があったが、大久保にはそれがなかった。大久保が西郷に不満をもっていたのはその点で、かれは西郷に対し、面とむかって、「お前(まん)さァはいつもそうじゃ。こまったことになると俺(おい)のみを残して何処かへ去る」と、凄惨な表情でいったこともある。

p.30
大久保の特徴のひとつは、自己の責任についてはつねに不退転でいることであり、決して回避をしないことであった。大久保が、盟友だった西郷に終始不満をいだいていたことも、この点だった。西郷は事に乗り出して途中で厭気(いやけ)がさすとさっさと身を退いてしまうところがあり、そのことについては大久保の解釈では西郷は気儘(きまま)で、泥をかぶって責任を全うするところに欠けている、ということになる。

行動力

 もう一つが決断力・行動力。これについても、この能力の欠けた人物で有能な人はほとんどいないと思うけど。思い立ったら強引なまでに物事を進めていく。今大久保がいなくなったら政府は危機に瀕するのではないか、そういう問題があったのにもかかわらず渡清する。強引ではありますがね、そういう部分には惚れ惚れしてしまう。もちろん前巻の佐賀の乱の討伐のときにも圧倒的な対応の早さも凄かったんだけど今回も相変わらず飛び回ってます。

ルソー「民約論」とミル「自由論」

 大久保が活躍するのは大体5巻の前半で、後半は自由民権の先駆者である宮崎八郎を中心にすえた展開になる。僕がその中で一番気になったのはルソーの「民約論」の話に関すること。八郎はこの本に大いに感動したという話だけど、それは置いておいてフランスやアメリカでの革命に大きな影響を与えたのは「聖書」と「社会契約論」だとか。今度読んでみたい!!

追記

ラフな言葉遣いで書いてみた。いろいろ試してみたい。どんな書き方が自分の感じたことを一番素直に、相手に届くように、またできるだけ面白いように、かつ躍動感あふれるように表現できるのか。